カイはどうやって広がったか?
(坂井弘紀 / 中央ユーラシア文化史、テュルク口承文芸研究 / 和光大学教授)
ユーラシアには古来、テングリへの信仰があった。テングリとは元来、天空を意味したが、やがて神を表すようになり、やがては擬人化された神格として解釈されるようになった。天空にいる至高神ウルゲンと地下世界の支配者である悪神エルリク、この二人のテングリの相克を軸にアルタイの神話世界は展開する。天空界と地下界のあいだに我々人間が暮らすという世界像をアルタイの人々は古くから描いてきた。このような垂直多層的な世界観はアルタイのみならず、他のテュルク諸民族にも共通してみられるものであるが、テュルクの人々のあいだにはこうした世界観に基づく英雄たちの活躍を描いた物語が口承により語り継がれてきた。アルタイもたくさんの英雄を語り継いできた民族である。
アルタイの英雄叙事詩はカイという。カイの大きな特徴は喉声で歌われることであるため、カイは一般に「喉歌」とも解される。カイは、声を振動させたり、うなり声を上げたり、あるいは声帯を使わずに高音で口笛を吹いたりと、さまざまな歌唱テクニックを駆使して表現される。カイチュ、すなわちカイを演ずる人は弦楽器トプショールや口琴コムスを伴いながら英雄叙事詩や民間説話を聴衆に伝えた。馬の蹄の音やいななき、鳥のさえずりなども見事に表現される。カイはアルタイの民族文化の主柱として、今では世界に広く知られるようになった。
カイはいったいどのように広がったのだろうか。アルタイには次のような伝承がある。
「ムンドゥス族、イルキト族、トロス族の出の三人の男が大きな山へ狩りに出た。ムンドゥスの男は一晩中眠れず、笑ったり何かを聞いたりしていた。そして「私はアルタイの主の声を聞いた。その指示に従う」といい、狩りには行かず一人その場に残った。二人は三日狩りをしたが獲物は何も見つからなかった。ムンドゥスの男にイルキトの男は「どうしておまえは狩りをしないのだ?」と怒った。ムンドゥスの男は「アルタイの主がトプショールを杉の木の根元に置いた。そのトプショールをもってきてくれ」と言う。トプショールを手にしたムンドゥスの男はカイを歌ってからこう告げた。「クマを求めるならばこの山へ、シカを求めるならば山の向こうへ行け」。さらに彼から具体的な指示を受けた二人は、言われたとおりにすると見事獲物を得ることができた。だが、彼がいないと一匹たりとも獲物を見つけることができなかった。そのことを尋ねる二人にムンドゥスの男は「自分で狩りをしたければカイを習うのだ」と助言した。そして二人はカイを習得し、狩りを行うようになった。こうしてアルタイにカイが広がっていったという」。
ムンドゥスやイルキト、トロスはいずれもアルタイ民族を構成する集団名である。ムンドゥスの男が何かを聞き笑うという場面は、彼が主や精霊の声を理解する能力があることを示す。中央ユーラシアにはシャマニズム文化が根付いていたが、「アルタイの主の声を聞いた」というこの男は、この世界と異世界、人々と神とをつなぐシャマンの姿そのものといえよう。ムンドゥスの男が伝えた指示は託宣といえる。トプショールが山の主から贈られた聖なる楽器であることも興味深い。アルタイ山脈周辺のテュルク・モンゴル系民族に伝わる英雄叙事詩とアルタイ山脈はきわめて強い結びつきがある。英雄叙事詩が語られる前には「アルタイ賛歌」が歌われ、この山を称える。アルタイの人々の伝統的な考え方によれば、獲物はアルタイ山の主霊によって狩猟者に与えられるものであった。二人の男が三日間獲物を見つけることができなかったのは、カイを歌ってこの山を称えぬ二人に山の神が獲物を与えなかったからなのである。ここにアルタイの山の主や狩猟にたいする考え方が明確に表れている。
カイチュの歌うカイに尋常ならざる力が漲っていることは、それを聞いた誰もが心から感じるであろう。この由来譚を頭に入れたうえでカイを聞くと、その背景には単なる「芸術」をこえた大きな世界が広がっていることが理解できるはずである。